山吹味噌は、信州小諸で創業340余年。
上質な本物の味噌をお届けします。

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 今年のNHK大河ドラマは、近く1万円札の顔となる渋沢栄一が主人公として取り上げられています。タイトルの『青天を衝け』は若いころ藍玉の売買のために信州近隣を幾度も訪れた際に(同行した従兄と漢詩「巡信紀詩」を合作した中で)栄一が詠んだ「内山峡」の一節からとられたとのこと。(小諸市と接する佐久市の内山峡に、渋沢没後9年に建てられた詩碑があります。)  そんなことから最近、弊社に渋沢栄一に関する問い合わせが何件も寄せられています。  弊社は永く味噌づくりをやってきた歴史の中で、時代を生き抜くための仕事としていろいろな業種の経営実績がありました。中でも特筆に価するのは明治から昭和の終わりにかけてほぼ百年の間、深く関わりを持った製糸の事業でしょう。  農家が蚕を育て、繭になったものを大量に買い集め、繭を解きほぐしながら複数の細い糸にヨリをかけ、絹糸に作り上げていく。糸になった絹糸を生糸といい、この事業を製糸業と称しました。  日本が鎖国を解くことになった明治維新の産業改革の初め、群馬県の富岡に官営工場が立ち上がり、フランス式繰糸器械を導入して稼動させたのは絹製品が国際的に求められており、貿易の花形として外国での需要に応えることが国益にも繋がることであったからです。  弊社中興の祖であります小山久左衛門正友は明治維新を7歳で迎え、成人したころ、身近な親戚の手引きで京都に学ぶ機会を得、帰郷後、家業の醸造に打ち込んでいました。そこに信越線開通の報が入り、小諸の発展を考慮に加えて製糸業に踏み出すことになりました。  一方この時、横浜では渋沢栄一の従兄・渋沢喜作が栄一とともに「渋沢商店」を立ち上げており、生糸の輸出に大きな力を持っていました。正友が開始した製糸事業の拡大にあわせ渋沢商店との往来は多くなり、輸出に向ける製品の全量を任せ、工場増設の資金も融資してもらう関係となっていました。  こんな背景が、小諸の商工業の近代化(商工会議所の発足/久左衛門正友が初代会頭を引き受けました)につながっていったものと思われます。久左衛門の後を継ぐ邦太郎も、渋沢栄一とは深く行き来があり、久左衛門との、また邦太郎との書簡が残されています。  大正6年(1917)、小諸で開催された佐久地域の連合青年会総会に邦太郎は講演者として渋沢を招聘しました。小山家に宿泊した翌日、演壇で冒頭に自分にとってこの地は「第二の故郷と言いたいくらいに懐かしき土地」と挨拶した由。ご覧いただいている「博愛之謂仁」は渋沢栄一が70歳を過ぎたこの時期の揮毫と思われます。 

(M・T)

 この一、二年、すり鉢の出番が増えました。夏は冷汁、季節を問わずおかずに和え物ほかで使用。冷汁・和え物にはゴマかクルミが付き物で、ナッツ類は香味がよいだけでなく豊富なビタミンEが体にいいといいますし、加える手前味噌は粒をすりつぶすことで更に風味が増し、食欲不振気味の方にもおすすめです。これまでも当欄ですり鉢料理のよさをお伝えしてきましたが今回お伝えしたいのは上げ膳据え膳で「おいしかった」と満足されているのは勿体ない、ぜひご自分ですり鉢を使ってほしいということです。なぜかは、すり鉢と味噌の歴史からお付き合いください。  すり鉢は味噌の変遷とともにありました。中国(宋)から味噌の醸造法を日本に伝えてくれたのは覚心というお坊さん(信州出身です!)。煮大豆+麴+塩を1年から3年かけて熟成させた舐め味噌、すなわち大徳寺納豆ふう、もしくは金山寺味噌ふうの大豆の形があるものだったところにすり鉢という道具が現れたことで調味料となる飛躍をします。  調味料としての雄なる使用法が味噌汁でした。具(身近にある野菜、ときには魚介・肉)を煮ている間にすり鉢で味噌豆をつぶし、汁に溶かせば美味な汁物を食べられる簡易さに武家、やがては庶民の食事の定番に。  こうして味噌造りは、仕込んでから四季の気温変化を利用しつつ年月をかけることで塩気の角がとれること、旨みのためには、じっくり時間をかけねばならないもの、が常識といいますか外せないことでした。  それが一部転換されるのは明治期、麹の働きを温度管理で調節し、樽で寝かせる期間を数カ月に短縮する速醸法が考案されます。日清日露の戦争により兵隊さん用に味噌の増産が急務とされたからでした。同時期、原料豆を臼と杵で砕く工程が機械化もされ、漉し味噌・すり味噌が販売されたことがすり鉢の出番が減るきっかけとなります。その後、醸造期間は更に短縮され第二次世界大戦中にはひと月以下にも。味噌は配給となり、不足時に旨みがどうのこうのと言ってられない時代だったのです。  戦後、大豆や麹(米・麦)を調達できる農家は昔ながらのやり方で味噌造りを続けていましたが、一般に販売される味噌は速醸・漉し味噌が続きました。経済が右肩上がりに成長すると欧米料理の魅力が私たちを魅了し、家庭でも作られるようになりました。和食の割合が減るにしたがい、速醸のお味噌しか知らない世代には味噌汁イコール美味しくないものという思いこみも生まれたように思います。加えて、漉し味噌は味噌漉しという道具を使わないと溶けにくいので面倒がる風潮も。  昨今、和食のよさがようやく見直され、味噌が体によいこと、熟成に時間をかけた味噌は更に風味も体にもよいことが知られてきました。さまざまな味噌が出回る中、山吹味噌によって「味噌本来の風味・美味を知った」という声を頂戴すると私どもの味噌造りは間違いでなかったと勇気づけられます。  始めに戻りましょうか。すり鉢料理も時間がかかります。やってみるとお分かりと思いますが、すりこぎを回す円周運動は無の境地。お寺で台所仕事が重要とされるのもうなずけます。家にいる時間が多くなったり、心が落ち着かないことが増し気味のこの時節、無心になれるすり鉢料理はいいものですよ。むしろ、時節に関係なく、楽しい作業なのです(この先に美味が待っていると思うと余計に)。もしお子さんがいれば、すりこぎを回すのを手伝ってもらいましょう。覚えたら次からは任せましょう。子どもはこの仕事が大好きなんですよ(私がそうでした)。  ──お読みいただき有り難うございました。

(当主)

吸い口とは   吸い口をご存知ですか? 名前を聞いたことがなくても、体験済みあるいは使いこなしていらっしゃるかもしれませんが、今回はお味噌汁の総仕上げとしての登場です。  お店の汁物では、お味噌汁でも蓋付きのお椀のこともあります。蓋には熱い汁物を少しでも冷まさずに手元に運ぶ役割とサプライズのお役目があって、蓋をとるなりダシの香りにあいまって爽やかな香りが鼻腔を刺激。期待感と幸せな気持ちにさせてくれる瞬間です。  そうして、まず汁を含んで味わいます。旨いなあと頭の中でつぶやきつつ具の上にのっているもの、例えば柚子皮のへぎ切りをひと噛み。その柚子皮が吸い口です。具にとりかかるのは、そのあと。  ご家庭なら、寒い季節に出番が多い豚汁に七味唐辛子を振る方は多いかと思います。その七味も吸い口です。 いつものお味噌汁が更に美味に  お味噌汁をおさらいすると──具(実)は、豆腐+わかめ、白身魚+ゴボウのささがき、のように基本は2品(集め汁=具沢山のお味噌汁は例外)。もちろんそれで充分満足ではありますが、時には吸い口を添えてみませんか? 一椀が途端にぐっと引き締まります。  構えることはありません。私は冬場の例えば蕪+油揚げが好みなのですが、ある夕、油揚げが切れていました。ちょうど揚げ玉がありましたので、具を蕪+蕪菜とし、お椀に盛ってから揚げ玉を散らしましたら「何ともコクあってしみじみした味噌汁だ」と喜ばれました。そんな感じで台所にあるものを自由自在に活用しましょう。何を選ぶかによって季節を感じさせたり、おいしさも増すこと間違いなしです。 添え物にあらず。からだにお役立ち!  吸い口と意識していなくても、豚汁など肉や魚介入りの味噌汁に細ネギの小口切りを添えるのは単純においしいからですよね。でも吸い口が考えられるようになった時代は今と違い、鮮度を保証できませんでしたから、刺身のツマと同じ理由で〝毒消し〟すなわち食中毒を防ぐための理由が大きかったようです。そういえば吸い口は陳皮(柚子の皮)、ショウガ、山椒など漢方薬の素材が多い⁉ 〝からだにいいこと〟だから生まれたものなのですね。  では、吸い口をさまざま楽しんで、毎日のお味噌汁をご賞味あれ! ※吸い口はさまざま。七味・一味・粉山椒・練りがらし、大葉・ ショウガ・ミョウガ・ユズ‥‥あしらい方は小口切り・千切り・ おろすなど工夫してどうぞ  小諸にある山吹味噌の小売店舗では小史資料を展示しており、「諸國かつをぶし」という古い看板も壁に下がっています。  日本最古の書物・古事記の中に堅魚という名前が登場します。また養老律令(718)に煮堅魚、堅魚煎汁とあり、これが今日の鰹節の原形で、煎汁は日本古来の調味料とされています。これらは長い年月をかけて進化してきました。  室町時代に、干し鰹に焙乾の技術が取り入れられ、鰹節が出来ました。始めの焙乾技術は囲炉裏の上に用意された平かごに、おろした鰹を入れ、炊事をする熱と煙により勝手に焙乾されるだけでした。  江戸時代、土佐(高知県)や紀州(和歌山県)から大坂へ船で鰹節を運ぶ際に、湿気でカビが発生する問題がありました。  燻乾加工は紀州出身の角屋甚太郎という漁民が延宝2年(1674)に土佐で最初に実施したと伝えられています。奇しくもこの年は弊社の創業と重なり、感慨ひとしおのものがあります。  改良土佐節は燻乾法を土佐に伝えた甚太郎の故郷に教えた以外は土佐藩の秘伝とされました。しかし、宝永年間(1704~1711)には紀州の森弥兵衛によって枕崎に製法が伝えられ、さらに土佐与市によって天明年間(1781~1789)に熊野や安房、享和元年(1801)に伊豆へ製法が広まりました。これにより土佐節・薩摩節・伊豆節が三大名産品と呼ばれるようになります。江戸期には国内での海運が盛んになり、九州や四国などの鰹節も江戸まで運ばれるようになり、土佐の清水節、薩摩の屋久島節などを大関とする鰹節の番付表が作成されました。  その後、更なるカビ利用による進歩があり、鰹枯節と呼ばれる元となった燻乾カビ付け法を考え、前もってカビを発生させることで長期保管が可能になり、全国へ広まりました。  カビは焙乾したカツオの身の内部に菌糸を張りめぐらして水分を吸い上げるとともに、強力な分解酵素で旨み豊かな各種アミノ酸を生み出し、生臭い成分を分解して消していきます。  『鰹節』(宮下 章 上・下巻)によると、江戸の鰹節商人の知恵と西伊豆田子の鰹節職人の工夫による卓越した発酵技術によって作られたとされています。田子の職人はこれを難なくこなし、先進地・土佐の鰹節とは違った独特の伊豆節を生み出しました。明治初年(1868)において、3番カビ付けを完成品とする「本節」が誕生した瞬間です。土佐式が納屋の中に裸節を蔵置きし、悪性のカビの発生を防止する目的で1回のカビ付けを行ったのに対して、伊豆では悪性のカビの発生防止だけでなく、さらに鰹節の味を良くするためにカビをつけていました。3回のカビ付けを徹底して行うことにより、伊豆節は天下の名産品に仲間入りしました。その後、明治40年代には4~6番カビ付けの本枯節が出現して伊豆節が完成し、全国的に大変高い評価を受けるようになりました。  カビ付け方法の足跡の年代設定は、諸説があり明確ではありません。明治33年に著された『静岡賀茂田子鰹製造法』には4番カビ付け以降の記述もあり、明治40年代より前に本枯節が造られていたとも考えられます。伊豆節は、駿河湾の対岸に位置する焼津に伝えられ、焼津節として発展します。鰹節に付けているカビの種類は味噌、酒、醤油に使う麹菌の仲間ユーロティウム(和名:カワキコウジカビ、あるいはカツオブシコウジカビ)というカビ毒を産生しない優良カビです。  鰹節はカビで旨く、堅く、長持ちさせる逸品です。

(M・T)

あまり噛まない食事法を続けていると!?  日頃、唾液(つば)について意識していないかもしれませんが、唾液はたくさん仕事をしています。喋ったり歌ったりできるのは唾液が口内を潤してくれるから。粘膜を保護し、消化を助けてもくれます。忘れがちなのは抗菌・自浄作用があること!  衛生状態を保つために歯磨き・口ゆすぎは欠かせませんが、抗菌・自浄作用をもつ唾液がいつも口内に分泌されている状態にしたいものです。  唾液は顎の上下運動によって分泌が促され、上下運動が滞ると分泌されにくくなるとのこと。例えば食事の際に噛まない食事法を続けていると──唾液の量が減少→むし歯・歯周病を誘発→歯を失うはめになりかねません。  実は私達の咀嚼回数や食事時間は大昔は勿論、戦前に比べてもかなり減少しているというデータが! 堅い食材よりミートソースやシチュー、ファストフード等、やわらかいメニューが現れ、好まれるようになったからでしょうか。時間に追いまくられる生活様式の変化もその理由の一つでしょう。忙しいからとか喉に詰まりたくなくて主食あるいは副菜を汁物で流しこんでいませんか? 同じものを出されているのに同席者より食べ終わるのが早い人も要注意。噛んでこそ有益な唾液が出るのに噛まない食事法をしているかもです。 よく噛むためのポイント  調理するときは──〈食材の組み合わせを工夫〉副菜・味噌汁には菜類・葉物、海藻類をお忘れなく。それらは繊維質が多いのでよく噛まざるを得ない食品なだけでなく歯の付着物を落としてくれるという利点もアリ。  〈具材を大きく切る〉〈歯ごたえを残して煮る〉ことも有効です。大きな塊は顎を使わざるを得ません。噛みごたえある食品には食物繊維が多く、脂質や糖質の量は少なめで、ゆっくり吸収されるため、血糖値をあげる危険が少ないともいわれています。  食べるときは──〈主食と副菜は別々に口に入れる〉。ご飯を味噌汁で流し込むのはご法度。〈噛む時は箸を置く〉〈姿勢よく座る〉〈急がない〉こともポイントです。夏は、きゅうりがおいしいですね。丸のままのきゅうりや野菜スティックを生味噌や味噌ディップを付けてポリポリ、粉砕すべし!   では、どのくらい噛めばいいのでしょうか? 試しにご飯あるいは甘くないパンをよく噛んでみてください。奥歯で潰しているうちに甘さを感じてきませんか? 甘くなったのは唾液に含まれる消化酵素アミラーゼがデンプンを分解したから。そこまで行くのが理想。〝一口30回噛もう〟というのは、そういうことだったのですね。  よく噛むと少量でも満足し肥満防止につながり、唾液が出ると味覚が敏感になって、食べ物の味がよく分かるようになり、いいことだらけです。 栄養バランス  食べ物を「よく噛むこと」「よく噛めること」は、健康づくりにとってとても大切です。むし歯は減っていますが歯周病は成人の多くが罹っているそうです(30代で3割以上。年齢が上がるにつれ割合が高くなる)。食べ物をよく噛めなくなると、硬い食品を避けるようになり、ミネラル・ビタミン・食物繊維などの摂取量が低くなってしまいます。食べる楽しみは歯があってこそ、栄養バランスのよい食事と噛む食事法を心がけたいものです。 参考:厚生労働省 生活習慣病予防のための健康情報サイト/日本口腔保健協会HP/農水省HPほか  私達ヒトが暮らしていくうえで必然的に生まれた鍋──もちろんみそ汁作りに欠かせません。ちょっと、ひもといてみましょう。    人類は火を獲得したことによって獣から身を守れるようになり、火を調理に使うことによって栄養を摂取しやすくなったのは数百万〜数十万年前といわれています。  獲物を焚火で焼くのに骨に刺したり、平らな石にのせて加熱。水を沸かす道具が必要になり、発明したのが土製の鍋でした。木のマタで作った支えに吊るすため、藤蔓などを付けられるように穴を開け、蔓が焦げない工夫もされました。我が国に限ると、まず浮かぶのが縄文式土器ですよね。私が若い頃は祭祀に使われたと教わりましたが、今どきの情報では日常の煮炊きに使われた跡があるものも出土されているようです。縄文式以降、面がデコボコしていない弥生式土器のようになるのは、何度でも使用に耐えられ、洗えることを優先させたからかもしれません。  やがて青銅器、鉄器が大陸から渡来し、中でも鉄製の鍋は輸入品で大変貴重でした。一般の人も使える国産品が普及したのはずっと後の鎌倉時代。蔓も丈夫な鉄製になりました。炉の時代の形は半球型だったのが、竈が発明されると、置くのに適する平鍋や片手型も生まれていきます。  鉄鍋はなくてはならないものとして大切に扱われましたがサビ易いうえ、毎日使い続ければ穴が開いたりヒビが入ります(慣用句にある「割れ鍋に綴じ蓋」の割れ鍋は、そういう鍋をさしているんですね)。でも修理してくれる鋳掛屋さんがどの町にもあり、どの家でも長年にわたって使い続けることが出来ました。修理が効かないほどになったら引き取ってもらえ、鋳物屋、やがて鋳物工場で溶かして型に流し込んで再び鍋となるのでした。  ところが日本中の家庭にあった鉄鍋が或る時、姿を消してしまいます。太平洋戦争の戦局悪化により昭和16年、国家総動員法・金属回収令が出され、家々は鍋など鉄でできたものをすべて(タンスの取っ手まで!お寺は梵鐘・仏具まで!)お国のために供出。銃後の庶民はすぐペコペコにへこんでしまう薄手のアルマイト製鍋を大切に使ったのでした。釉をかけない素焼きの土鍋も出回ったそうですが、もろかったと聞いています。  戦争が終わって料理を作れる時代が戻ってきました。経済白書が「もはや戦後ではない」と記した次には高度経済成長期が到来し、新聞の家庭欄、婦人雑誌、テレビがさまざまな料理とともに作るに必要な鍋を見せつけるものですから(!?)それらの料理を作って家族に食べさせたい、鍋を自分で買わないまでも贈答に鍋がよく使われた時代も経て‥‥台所の棚を見れば、年に数回でも活躍しているならまだしも、数年来、登場することなく断捨離の矢面に立っている鍋がお宅でも一つや二つでないのでは?  今や、電子レンジや、コンビニ・スーパーのお陰で鍋を持たなくても温かい食事にありつけます。甥っ子はモノを持たない、料理もしない、とミニマリストふうを気取っていましたが、昨年以来テレワークとなり、その余波か鍋を買ったというので味噌を送ってやりました。「自分で作った味噌汁がまたおいしいんだ」「もっと料理の幅を広げるために新たな鍋を物色中」とのこと。それはそれでよかったと安堵する今日この頃‥‥鍋について話し始めるとキリがありませんので、この辺で筆を置きましょう。

(当主)

 大豆は味噌を仕込むための大事な原料です。北半球に暮らす日本人にとって大豆は一年に一回、秋に収穫される作物として、当たり前のこととして身についている常識です。ところが世界規模で穀物事情を考えねばならない現代においては、南半球における収穫が半年後にあって需給の仕組みが保たれることになっており、流通の価格はアメリカ・シカゴにある穀物市場で決まることになっています。    近年、大豆需要が拡大し、直接、人が食用にする大豆より、油を絞り取ったり、その残渣(搾りかす)を家畜の飼料にしたりする用途が多くなっています。市場価格は農作業の効率を優先する「遺伝子組み換え」大豆も対象に含まれ、96%が遺伝子組み換え大豆。遺伝子組み換えでない食用大豆は数量が少ないものの同種の農産物であるため、価格の動向はそのまま反映されることになっています。  この大豆価格が昨年夏過ぎより急上昇をし始め、止まるところを見せない状況を続けて新年を迎えました。穀物仲間の小麦やコーンはそれほどの価格上昇になっていないにも関わらず、大豆の価格が飛び抜けて跳ね上がっているのは何故だか分かりません。アメリカにおける国際価格の動向は中国産の価格にも、日本国内産大豆にも及び、本来独自のはずの国内入札価格も相当なアップ傾向となっています。秋に収穫された日本の大豆は、12月の下旬に最初の入札が実施され、年開けには流通が開始されますが、今年は入札が遅れ、価格も昨年の20パーセントほど上乗せになっています。  大豆を国際的な作物として捉えなければならない理由の一つに中国の存在があります。大豆から採れる油とその搾りかすの最大利用国が中国だからです。米中の貿易摩擦が大豆の輸出入に大きな影響を及ぼしていたことも、アメリカの大統領選挙も随分と関係があったとも言われているところです。  世界規模の変調は大豆の流通にも現われてきています。昨年初めに中国で発生した新型コロナウイルスの影響で貿易に使用する海上コンテナの補給が不足し、貨物の用意が出来てもコンテナ容器が手当て出来ずに予定通りの出航にブレーキがかかってしまう事態が発生するようになっています。新造のコンテナは生産拠点が中国であり、単価的にも圧倒的な優位にあります。コロナ禍における減産の影響が1年後のここへ来て現れています。事態はかなり深刻です。ここでも新型コロナウイルス感染症の鎮静化が望まれます。 フキノトウは味噌との相性が抜群! 食べ方を幾つかご紹介します。 新鮮なら生も可  まだ雪が残る早春、枯草の野辺や庭の隅に隠れている蕗っ玉(まだ開いていないフキノトウ)を見つけられたら「初物七十五日(初物を食べれば75日生き延びる)」。新鮮なうちの食べ方は生! 花びらと言いたいような薄い黄緑色した包葉に生味噌をちょっと付ければ、お酒のアテにピッタリ、ご飯もお代わり数杯行けます。 天ぷらや蕗味噌に  フキノトウはさほど栄養価はないですが体内合成されないカリウムやマグネシウムなどの微量元素が含まれていますし、何より春を感じさせる食べ物──旬になったら、一度は調理していただきたいですね。  天ぷら:フキノトウは水にさらしておき、キッチンペーパーで水気をとったら衣液をからめ、余分な衣を菜箸でぬぐって揚げます。そのまま何も付けなくてもいいくらいですが、付けるなら天つゆよりも塩や生醤油が合うようです。友人宅では味噌ダレで出してくれました。  蕗味噌は、ご家庭により「焼く」派/油で「炒める」派に分かれます。お好みでどうぞ。 おかず味噌  山菜採りが無理な方、またはお店で買って調理するのはちょっとハードルが高い方でもフキノトウの美味を味わえるのが山吹味噌の「おかず味噌」シリーズの「ふきのとう刻み」です。当社の味噌を使って、信州のお漬物屋さんと試行錯誤して商品化した逸品です。お試しください。 蕗味噌の作り方

●焼く【風味抜群!】

  1. フキノトウを刻んでから茹でこぼし、水気をしぼる。
  2. まな板の上で味噌・砂糖と包丁で練るように合わせたら、小皿や朴葉に移し、オーブントースターで焼く。ジュブジュブしてきて、上部や端が焦げてきたら出来上がり。

●油で炒める

  1. フキノトウを刻んでから茹でこぼし、水気をしぼる。
  2. 油で炒めます。味噌と砂糖を加え、火が通ったら出来上がり。
*フキノトウはキク科ですので、まれにアレルギー反応を起こす方がいます。ただし伝統的なアク抜き(水でさらすか茹でこぼす)をして大量に食べなければ安全と検証されています(農水省HP)。雄花(黄色い花)の花粉が原因ですので心配なら雄花部分を取り除いて調理しましょう。
 「君なら面白いと思ってくれるんじゃないかな」と、友人から『信濃の俳人』(小林郊人著)という本を手渡されました。亡父の愛蔵本だったとのことで、歳月を感じさせるページをめくると、発行は昭和19年(1944)。松尾芭蕉没後250年の年だったそうで、芭蕉の旅(「おくのほそ道」)に同行した河合曾良(諏訪出身)をはじめ、天明五傑と称された大島蓼太・加舎白雄、今では国を超えて共感を呼んでいる小林一茶らが載っています。長野県=信濃は俳人をたくさん輩出してきたのだなと改めて思いました。  「で、この本の序文を書いているのが君と同じ小諸出身の臼田亞浪なんだよ」「旧制中学時代に俳句に目覚めた父は大野林火(*巻頭)から直接指導を受けたんだが臼田亞浪は師の師なわけで、もっと評価されていいと常々言っていた」とのこと。  そんなわけで今回は近代の俳句界を牽引した臼田亞浪をご紹介したいと思います。  臼田亞浪(卯一郎)は明治12年、浅間山裾野の坂の町・小諸の西端の新町に生まれました。  少年期に地元の俳句愛好父子から薫陶を受け、(当家も開校に尽力した)小諸の私塾・小諸義塾を出て町役場に勤めた後に上京し法律学校に入学。病のため帰郷しますが再び上京して同郷の政治家宅に寄食した際に文学欲が起きて短歌を与謝野鉄幹に、俳句を高浜虚子に教えを乞うたそう。結婚後は靖国神社前に家を成し、小諸義塾出身者のための寄宿舎を経営しつつ法政大学を卒業し新聞記者になりますが、当時主流だった虚子の花鳥諷詠や荻原井泉水の自由律に異を唱え、「俳句は出発し直さなければならない」と論じた大須賀乙字に感動、乙字の援助を得て俳誌「石楠」を創刊し(1915)、俳壇に立つ意志を固め新聞社を辞します。  芭蕉を慕い、自然の中にこそ真の俳句がある、表現の技術より「心のまこと」を求め、「石楠」からは大野林火、栗生純夫(長野県須坂市出身/小林一茶研究家)ら多くの門人が育ちました。 林火が記した「わが愛する俳人」を読ませてもらうと学生時代から自宅に通った人だからこそ知る師夫妻の日常も書かれていて興味深いものでした  俳号の1字目の亞は本名・卯一郎の卯と一を合わせ、郎は浪に。諧謔精神が表れていますね。彼の句は『臼田亞浪全句集』にて読めますが、小諸市に幾つか立てられている亞浪句碑から一、二ご紹介しましょう。  小諸駅に直結する懐古園(小諸城址)の桜馬場の千曲川寄りに「雪散るや千曲の川音立ち来り」(S5の作)が、島崎藤村「千曲川旅情の歌」碑と向かい合っています。人生のほとんどを東京で暮らしても何かの拍子にふと蘇るのは、やはり千曲河畔のふるさとの情景・音だったのではないでしょうか。  「浅間ゆ富士へ春暁の流れ雲」(T10)は生家近くの青木神社境内に。「ゆ」は「から」を表す古語。付近には北国街道を西から江戸方面に歩く旅人が初めて富士山を目にする富士見坂もありますので、彼の脳裏には北に座する浅間山とともに遠く南の富士山の山容があったはずです。中でも灼きついていたのは、いつだったかの春の景、夜と朝のはざまの一瞬、薄紫色の空に白い雲が浅間と富士を帯のように結んでいた‥‥神々しさを感じたかもしれません。いつかぜひ訪れて句のスケールの大きさと自然のダイナミズムを感じてください。  亞浪はオノマトペ(擬音)や繰り返しの妙を取り入れた句も多数作ったそうです。最後は中でも私が気に入った春の句で締めさせていただきます。  ぴほぴぴほぴと木の芽誘ひの雨の鵯(S 20) 

(当主)

 豚汁のルーツは諸説あり、けんちん汁、薩摩汁、屯田兵の汁、牡丹鍋などが挙がるそうですが、私は牡丹鍋の原形と思われる〝猪汁〟を推したいです。なぜなら豚汁は全国区のお味噌汁であり、時代性も加味したいからです。  牡丹鍋と猪汁は同じでしょ!?まあ、似て非なる、でしょう。まず、猪汁は日本人との付き合いがとんでもなく長い汁物です。どのくらい長いかって? 縄文人が土器を生み出したころから原形はあったと言ってもいい!?  人間が火を見い出すまでは植物も動物・魚貝も生食でした。火を手に入れたことにより炙って食べるようになり、土器を発明したことにより、煮て食べることが始まったわけです。植物を舌や肌に当て毒がないことを確かめ、狩った獣肉や漁した魚貝も沸騰水で煮ることによって安全さが増したはずです。海水や岩塩によって味付けの妙も知ったことでしょう。  日本人は農耕民族といいますが、農耕・稲作が始まる前は当然ながら採取・狩猟して食料を確保していました。貝塚や遺跡からは哺乳動物の骨が見つかるそうで、その9割は鹿および猪なんだとか。  猪=イノシシの名が出たので申しますと、古い大和言葉では魚肉をウヲ、鴨などの禽肉をトリ、獣肉をシシと呼ぶそう。ですからイノシシとは「猪(イ)」の肉のことをさすのですね。「鹿(カ)」の肉を現代人はシカニクと言っていますが昔はカノシシと言っていたそうです。  飛鳥時代に我が国に仏教が伝えられると動物の殺生と肉食が禁じられるように。しかし奈良・平安時代、以前より習慣として食べられていた鹿と猪は獣肉であっても禁じられなかったそうです。なぜなら、鹿猪は田畑を荒らす害獣だったからです。捕らえた猪を飼育し家畜化も始まりました。ただし貴族は肉食を禁忌し、鳥や魚を食しました。鎌倉時代になると武士が台頭し、獣肉に対する禁忌は薄まりました。僧・法然は自身の肉食は忌避していましたが、肉食をしても念仏を唱えれば救われると説いたと授業で教わった気がします。  徳川の治世、5代将軍・綱吉が生類憐れみの令を発令。法自体は一時的だったのに肉食は憚かられるものとして浸透し、鹿を紅葉、馬を桜・けとばし、猪は牡丹・山くじらと隠語で呼ぶ洒落も楽しみ、滋養になるというわけで、肉食全体を薬喰いと称したのでした。  中でも味がよい上に、すぐ精気に効き目があると言われたのが猪肉。猪は最も脂がのる冬が一番とされ、猪が手に入った日には囲炉裏または竈に大鍋でたっぷり猪汁(猪の味噌汁)を作り、大人数で薬喰いしたことでしょう。そんなに体にいいなら都会人だって食べたいのが人情。江戸の町はずれ、麹町あたりには獣肉を扱う店が軒を連ねていたそうです。皆さんも「山くじら」の看板が描かれた雪の日の江戸百景図をご覧になったことがあるかもしれません。当時、店で出されたのが牡丹鍋。そのころ七輪が発明され、一人でも少人数でも鍋を食せるようになったのです。猪汁とは作り方も異なり、甘味噌で土手を作り、猪肉を葱・牛蒡、汁とともに煮つつ食するものでした。  そんなこんな、日本全土の先人に猪肉の汁物と長い付き合いがあったことがご理解いただけましたでしょうか。近代になって豚肉が出回った時には猪汁や牡丹鍋に慣れてきたベースがありました。肉を豚肉に替えて、豚汁の始まりです。  長野県の南端・遠山郷で、畑を荒らして困る猪を捕獲している猟師さんから話を聞き、その足で山肉料理店へ向かったことがありました。最近は猪や熊が山里どころか町に出没したというニュースをよく目にし、気がかりです。

(当主)