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山吹のたより

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2021.04.07

小諸の町に まつわること、人 〜臼田亞浪〜

 「君なら面白いと思ってくれるんじゃないかな」と、友人から『信濃の俳人』(小林郊人著)という本を手渡されました。亡父の愛蔵本だったとのことで、歳月を感じさせるページをめくると、発行は昭和19年(1944)。松尾芭蕉没後250年の年だったそうで、芭蕉の旅(「おくのほそ道」)に同行した河合曾良(諏訪出身)をはじめ、天明五傑と称された大島蓼太・加舎白雄、今では国を超えて共感を呼んでいる小林一茶らが載っています。長野県=信濃は俳人をたくさん輩出してきたのだなと改めて思いました。
 「で、この本の序文を書いているのが君と同じ小諸出身の臼田亞浪なんだよ」「旧制中学時代に俳句に目覚めた父は大野林火(*巻頭)から直接指導を受けたんだが臼田亞浪は師の師なわけで、もっと評価されていいと常々言っていた」とのこと。
 そんなわけで今回は近代の俳句界を牽引した臼田亞浪をご紹介したいと思います。

 臼田亞浪(卯一郎)は明治12年、浅間山裾野の坂の町・小諸の西端の新町に生まれました。
 少年期に地元の俳句愛好父子から薫陶を受け、(当家も開校に尽力した)小諸の私塾・小諸義塾を出て町役場に勤めた後に上京し法律学校に入学。病のため帰郷しますが再び上京して同郷の政治家宅に寄食した際に文学欲が起きて短歌を与謝野鉄幹に、俳句を高浜虚子に教えを乞うたそう。結婚後は靖国神社前に家を成し、小諸義塾出身者のための寄宿舎を経営しつつ法政大学を卒業し新聞記者になりますが、当時主流だった虚子の花鳥諷詠や荻原井泉水の自由律に異を唱え、「俳句は出発し直さなければならない」と論じた大須賀乙字に感動、乙字の援助を得て俳誌「石楠」を創刊し(1915)、俳壇に立つ意志を固め新聞社を辞します。
 芭蕉を慕い、自然の中にこそ真の俳句がある、表現の技術より「心のまこと」を求め、「石楠」からは大野林火、栗生純夫(長野県須坂市出身/小林一茶研究家)ら多くの門人が育ちました。 林火が記した「わが愛する俳人」を読ませてもらうと学生時代から自宅に通った人だからこそ知る師夫妻の日常も書かれていて興味深いものでした

 俳号の1字目の亞は本名・卯一郎の卯と一を合わせ、郎は浪に。諧謔精神が表れていますね。彼の句は『臼田亞浪全句集』にて読めますが、小諸市に幾つか立てられている亞浪句碑から一、二ご紹介しましょう。
 小諸駅に直結する懐古園(小諸城址)の桜馬場の千曲川寄りに「雪散るや千曲の川音立ち来り」(S5の作)が、島崎藤村「千曲川旅情の歌」碑と向かい合っています。人生のほとんどを東京で暮らしても何かの拍子にふと蘇るのは、やはり千曲河畔のふるさとの情景・音だったのではないでしょうか。
 「浅間ゆ富士へ春暁の流れ雲」(T10)は生家近くの青木神社境内に。「ゆ」は「から」を表す古語。付近には北国街道を西から江戸方面に歩く旅人が初めて富士山を目にする富士見坂もありますので、彼の脳裏には北に座する浅間山とともに遠く南の富士山の山容があったはずです。中でも灼きついていたのは、いつだったかの春の景、夜と朝のはざまの一瞬、薄紫色の空に白い雲が浅間と富士を帯のように結んでいた‥‥神々しさを感じたかもしれません。いつかぜひ訪れて句のスケールの大きさと自然のダイナミズムを感じてください。
 亞浪はオノマトペ(擬音)や繰り返しの妙を取り入れた句も多数作ったそうです。最後は中でも私が気に入った春の句で締めさせていただきます。
 ぴほぴぴほぴと木の芽誘ひの雨の鵯(S 20) 

(当主)

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