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山吹のたより

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2021.10.22

渋沢栄一

 今年のNHK大河ドラマは、近く1万円札の顔となる渋沢栄一が主人公として取り上げられています。タイトルの『青天を衝け』は若いころ藍玉の売買のために信州近隣を幾度も訪れた際に(同行した従兄と漢詩「巡信紀詩」を合作した中で)栄一が詠んだ「内山峡」の一節からとられたとのこと。(小諸市と接する佐久市の内山峡に、渋沢没後9年に建てられた詩碑があります。)

 そんなことから最近、弊社に渋沢栄一に関する問い合わせが何件も寄せられています。
 弊社は永く味噌づくりをやってきた歴史の中で、時代を生き抜くための仕事としていろいろな業種の経営実績がありました。中でも特筆に価するのは明治から昭和の終わりにかけてほぼ百年の間、深く関わりを持った製糸の事業でしょう。

 農家が蚕を育て、繭になったものを大量に買い集め、繭を解きほぐしながら複数の細い糸にヨリをかけ、絹糸に作り上げていく。糸になった絹糸を生糸といい、この事業を製糸業と称しました。

 日本が鎖国を解くことになった明治維新の産業改革の初め、群馬県の富岡に官営工場が立ち上がり、フランス式繰糸器械を導入して稼動させたのは絹製品が国際的に求められており、貿易の花形として外国での需要に応えることが国益にも繋がることであったからです。

 弊社中興の祖であります小山久左衛門正友は明治維新を7歳で迎え、成人したころ、身近な親戚の手引きで京都に学ぶ機会を得、帰郷後、家業の醸造に打ち込んでいました。そこに信越線開通の報が入り、小諸の発展を考慮に加えて製糸業に踏み出すことになりました。

 一方この時、横浜では渋沢栄一の従兄・渋沢喜作が栄一とともに「渋沢商店」を立ち上げており、生糸の輸出に大きな力を持っていました。正友が開始した製糸事業の拡大にあわせ渋沢商店との往来は多くなり、輸出に向ける製品の全量を任せ、工場増設の資金も融資してもらう関係となっていました。

 こんな背景が、小諸の商工業の近代化(商工会議所の発足/久左衛門正友が初代会頭を引き受けました)につながっていったものと思われます。久左衛門の後を継ぐ邦太郎も、渋沢栄一とは深く行き来があり、久左衛門との、また邦太郎との書簡が残されています。

 大正6年(1917)、小諸で開催された佐久地域の連合青年会総会に邦太郎は講演者として渋沢を招聘しました。小山家に宿泊した翌日、演壇で冒頭に自分にとってこの地は「第二の故郷と言いたいくらいに懐かしき土地」と挨拶した由。ご覧いただいている「博愛之謂仁」は渋沢栄一が70歳を過ぎたこの時期の揮毫と思われます。 

(M・T)

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